top of page

土岐 雄一郎 「塵箱文庫」

 2014年12月8日土岐雄一郎さんがご自宅で亡くなりました。死因は急性大動脈解離でした。昭和13年5月1日生まれ、76歳の生涯でした。昨年(2014年)お正月休暇を利用して奥様息子さんと富士宮にも寄ってくれました。車椅子を使っての移動でしたが、相変わらずユーモア溢れる、周りの人を楽しませるお人柄は昔と少しも変わりませんでした。なお父様が医者という家庭の長男に生まれましたが、医者に診てもらうのを嫌い医者に診てもらうことを勧めても「健康診断で病気でも見つかったらどうするのか?それこそ病気になってしまうよ」と奥様の土岐能子さんを困らせていたようです。最後まで土岐さんらしい本当に楽しい人でした。葬儀は14日松戸の栄松寺で行われ、親戚・兄弟はもとより、多くのミュージシャン・歌手などが通夜・葬儀に参列し土岐さんの冥福を祈りました。

 

  今では幻となりましたが土岐氏の「おもしろ留守番電話シリーズ」などを聞いて、楽しませてもらった一土岐ファンの私が、『ペタックスニュース』(佐藤風太氏発行)に掲載された彼の文章の中に彼のおかしさがいかんなく発揮されているのを目にし、土岐雄一郎さんの許可を得て、ペタックスに掲載されたもの、没にされたものも含め土岐さんの作品をのほんの1部ですがここに掲載いたします。

  我ら常人、凡夫の発想を超えた言葉遊びの天才?土岐雄一郎氏は、安っぽい倫理観を越えた壮大な人間愛を内包する道化(ファルス)の哲学者であり、虚無の深淵から風刺の調べを奏でます。土岐氏特有のナンセンスで饒舌な文体は我々の右脳を刺激します。 言葉遊びの天才、土岐氏の作品をとくとお楽しみください。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   塵箱文庫館長 篠田清

土岐 雄一郎プロフィール

 

   神戸市生まれ、菅美紗緒の主催する「炎の会」で伴奏者としてその才能をかわれ、その後上京。 彼の高い音楽性とユニークな人柄はまたたくまに周りを魅了し、あらゆる日本のシャンソン歌手の伴奏を努めるシャンソンン界の博士的存在である。シャンソンベストコレクション1、2(全音)の監修をするほか、ピアニスト作詩編曲家、カラオケ&BGM作家など活躍の幅は広い。まさにシャンソン界の重鎮である。 

 

01.  ら く だ            古今亭身障者  

 

   パソコンてか。-あんなもの、ことしになってはじめようたあ夢にも思わなかったよ。それまでアなんだい年寄りの脳味噌じゃあおっつかねえ代物だのなんのおどかす馬鹿が多くて何だあんなもの若いやつらの思い上がりで出来上がった遊び道具だぐれのモンでハナからひっかけなかったぐれえだが、歳はとってみるもんだわな。あれアあアた、年寄りのための道具ですわな。使ってみてわかったが何のこたあない、あれア五体満足の使う道具じゃない、肉体の衰え精神を上回る、不幸な年寄り連中にこそピッタリで、立派な介護用品だ。

     ナニが年寄りの脳味噌だ、脳味噌発展途上肉体最盛期なる若輩どもは道具に頼ってラクしようとしちゃいかん。

     現にわたしア近年すっかり足をやられましてナ。寄る年波というには弱輩もの、年寄りを名乗るにおこがましい…のにまるでヨタヨタ爺いそのものの歩きっぷりときちゃなさけないったらありゃし ない。さいわい上半身は、―と思っているうちに腕に手首にで字がかけなくなる画が描けなくなるマスかけなくなる。ところがさいわいにして本業のピアノ弾きはまだやめずにすんでいる…と思うは本人だけで、とっくに業界から見放されていて…マア層でしょうな、現に仕事も減っておる。そこで登場の、助っ人介護用品、パソコンでありシンセサイザー。楽譜も演奏も、肉体的欠陥だけはカバーしてくれる。ところがパソコンにしろケイタイにしろターゲットは弱輩どもだものな。一般常識じゃあ年寄りはハナから度外視だ。覚えておいてほしいよ、50,60と衰えて来るのは肉体だヨ、所が精神の方は衰えるどころかどんどん向上していく。甲状腺ホルモンの都合で変わったりもありですがね。
      いま一般サラリーマンの定年たらいくつ?五十何歳か六十でしょうが。どうなってんでしょうかねえ、これからというときじゃござんせんかい? スポーツ選手の三十、四十はこらしょうありませんわい。オーケストラ指揮者、画家、作家、職人、ピアニスト…こら八十、九十の世界だ。なぜかってえと九割がた頭脳の世界のひとたちってわけでボケるヒマもねえわな。
   バリアフリーは徹底して欲しいな。あたしゃあ我が身んなってはじめて実感するよ、ハア。首都まんまん中のJR新橋駅山手線見たンさいよ、エスカ無しエレベ無し有るのはお仕着せの車椅子専用サイドレールっきり。 階段なんて手摺がねえことにゃあ手も足も出やしねえまるでミノ虫でえ。といってもオイラ身障者の免許?持ってねえし車椅子リフトってえわけにもいかねえ。七十八十のジイチャンがスイスイのぼっちゃってるのなんか見るけどよう、軽業師に見えちゃって尊敬しちゃうなーフリーハンドだぜ。 何せ五体満足はらくだらくだ、らくだのももひきはくようになってああ、なんて我が身のさむいことか。痛感したよ。

    「何だ何だナンダッ。聞いてりゃいつまでもくだらねえマクラふり続けやがってこのヤロー。早くハナシに入れ噺に」  「何を何をなにをナニヲッ。聞いてりゃわかるだろうこの野郎マクラじゃねんだマクラじゃ。 ハナシなんだ話、噺じゃねえんだよ。カン違いしねえで欲しいもんだなおめえさん先入観てえもんで題目と演目とりぎがえてもらっちゃ困る。」 「おめえさんハナシカじゃねえってのか」

   「あったりめえのスルメイカこんなハナシカあるめえカッ。音楽家のはしくれぶんむくれ作詞作曲演奏家…」 「ああそーか」 「おまけにお茶っ引きピヤノ弾き」「万引きでもして岡っ引きにでもしょっ引かれてこい。」しょつ引かれてたまるかたまらねえか乞食の貯金便秘のクソだめウンのつきだぜツッコミ客め。

   (唄) そういえば総入れ歯だったぜオイラガッと取り出しカッと口あけミヨッミヨッミヨッミヨッミヨこれがほんとの歯ナシじゃハナシ

 

 

2. 墓医者                牧 伸自明

 

♪  病気を治してナンボの病院      誰もが信じて疑いません      そこがシロトの赤坂墓地よ   

    医者と石屋がツルんでいたら…   アーアーア~ヤンナッチャッタ・アーアーア~オドロイタ       

     どこがシロトの赤坂墓地か       ボチボチやったらハカどらないよ    病院・監獄・患者・受刑者      
     回転寿司づめ状態さ                 アーアーア~ヤンナッチャッタ・アーアーア~オドロイタ

 

    みなさん。都心のどこでもいいから高層ビルの窓から大都会の景色眺めてご覧なさいなあ。ほうら立派な墓石がビッシリどこま    でもつづく広大な墓地でご ざんしょう。前々から思ってたんですよ。こんなトコ、棲んでるわれわれは一体なんなんでょ ね。 そうー・・ムシですね、虫。いろんな虫がいますね墓場には。  ハネの生えたの生えないの・毛の生えたの生えないの・長いの短いの・大きいの 小さいの、空をとぶやつ地をはうやつ。みんなしかし同じいのちです。

 

 ♪  命を尊び命を守り            命を蝕む死神の手から              守ってくれると信じて入りゃ        
        死神の隠れ家だったりしてさ            アーアーア~ヤンナッチャッタ・アーアーア~オドロイタ

 

     今に始まったこっちゃないけど、毎日のように起こっている医療事故。信じられま せんな。死神の手に引き渡してナンボの医者や病院長はどうして死刑にならないのか、神をも疑います。

 

♪  虫の息の根引き取る時にゃ           青い畳の我が家のふとん             今じゃかなわぬ十中八九    
        固い病室の四角いベッド             アーアーア~ヤンナッチャッタ・アーアーア~オドロイタ 

 

  そうですよそうですよ! 人は死にそうになると必ず病院に入れられる。幸運にも退院=生還出来たとしてもその後二度めか三度めかには病院に入り 死を迎えさせられる。やはり病院は死神の待っている家、ってことですか。
  それは詭弁もしくは逆説、多くの識者はおっしゃるだろうとわかってますて。だからと言って歴然とした事実厳然とした現実はどうするのですか?人間は肉体と精神から出来ています。医学(西洋医学)は肉体にばかり目を向けすぎちゃあいませんか。医者から死期を宣告されて開き直った患者がすべてを忘れてすき放題遊び放題あげくの生還ーなどの症状をあげるまでもなく医学への反逆が功を奏し医学への信奉が悲劇を生んだ数多くの現実から目をそらし省みない医学者科学者が多すぎます。

 

  ああイヤイヤこの中にお医者さんはいらっしゃらないでしょうネ。いやいや私は病院に行きますですよモチロン。 昨日も風邪で…(笑)それから足ケガした時もね…イヤ今日来てらっしゃるお医者さまはみんな良心的なお医者さまばっかりですとも。(笑)

 

 ♪    こころ 精神 たましい ハート          しょせん科学じゃそんなものなど            たんに脳髄脳細胞の   

         整理現象の一つじゃないか            アーアーア~ヤンナッチャッタ・アーアーア~オドロイタ

 

      医者と石屋は通じてましょう          メスとトンカチ違いはあれど         読みが狂えば大変危険            
          ハカイシャ イシコロ誤射乱射         アーアーア~ヤンナッチャッタ・アーアーア~オドロイタ

 

(童謡かえ唄)  

♪   森の木陰でデンジャラホイ           トントン拍子の圧死病死           タイコーバ叩いてホラ吹いて         
          今夜はおまつり血のまつり         コビトさんがそろってにぎやかに           アホウイホウイモウ   デンジャラホイ    
                                                           …ット。 

 

3.   シャンソン

 

  「シャンソン」 「シャンソン歌手」 などというカタカナ文字がもう何十年来私にはひっかかってひっかかってしょうがなかったのです。 ただし、「日本国内」 「日本人歌手」 「日本語」 という条件での音楽ジャンル名として、です。 「それはどういう音楽なの?」 と聞かれた時の弁解がましい長説明になる自分の後ろめたさを想像するだけでもイヤになること一度じゃありません。
  「ポピュラー」 「クラシック」 「ジャズ」 「タンゴ」 などというのはわかります。世界中のレコード屋(CD屋)でもジャンル名としてあるでしょう。しかし 「シャンソン」 「カンツォーネ」 ときたら片やフランス、片やイタリア独自の歌で、日本でいうところの 「歌謡曲」 「演歌」 「ポップス」 「フォーク」 「新内」 「都々逸」 などの列のどこかにははいるものでしょう。ただし外国曲を訳して自国の歌にする、これはどこのくにでもやっていて、たくみに「自分のもの」にしています。
  イギリス、スペイン、イタリアから仕入れたフランスのシャンソン 「王様の牢屋」 「群衆」「アデュー」 とか、フランスから仕入れたアメリカのスタンダード 「枯葉」 「セ・シ・ボン」 「バラ色の人生」 などは云うに及ばず、日本の 「埴生の宿」 「庭の千草」 「洒落男」 「モン・パパ」 「蛍の光」 などは自国の歌だと信じて疑わない時点において、大成功でしょう。 「アメリカにシャンソン歌手がいますか?」 「フランスにカンツォーネ歌手がいますか?」 いる必要がどこにあるのでしょう。
  要は 「ジャンル名」 だけの問題なのでしょう?
  そうですそうですですからですから、日本は今までどおり、「シャンソン」 も 「カンツォーネ」 も日本で日本語で歌っていいのです。  要は 「ジャンル名」 だけの問題なのです。  日本に 「シャンソン歌手」 が必要ですか?

 

 

 

4.   晦日大工            

 

    エー、何だなー日本人てェのはコノ、仕切るってのか?コレ好きなんだよな。日本の伝統文化が全部それでなりたってきてるってやそうなんだが、大相撲がそれをよく表してるわな。土俵のうえだけじゃねえ客席まで仕切ってるだろ。上流中流下流、山の物川の物海の物、鯨と魚とメダカとボーフラ。イヤマア差別だキャベツだクベツだケーベツダモンベツだ、北海道じゃねえっうの。それが日本だよな。いいの悪いのじゃねえんだよ。仕切らなくちゃはじまらねえんだよ。 

  西洋風に云うとだな、ジャンル分けってのか、アフリカ風に云うとジャングル・ジム(ンー何のこった)-コドモは好きなんだよな,オトナにゃただの鉄骨立方仕切りだが、四角四面のヤグラの上で、チョイと出ましたトンカチ野郎、これは大工だわな(大工ってのもいなくなったな。)ヤギ武士もクロダ武士もだから日本の仕切り文化の産物なんだ。

  大体便利なんだよ、なんたって日本は。本屋へ行ってみな、夏目漱石、川端康成?純文学に有り? 横溝正史、赤川次郎?ミステリーに有り? 大仏次郎、柴田錬三郎?歴史小説に有り。内田百間、団伊玖磨?随筆、エッセイに有り。じゃあ、松本清張はどうなんだ?純文学ミステリー時代小説、歴史書 それぞれに有るか?ー ナニ?全部ミステリーってか。それゃあ、ミスたり得るぞ。 レコード屋(古いな、CD屋?)  

  ここは、大別は二つ。クラッシック ポピュラー そしてここからがフクザツ怪奇。まずクラッシクは作曲家別と演奏家別。(レーベル別もある) その中に更に、国内盤と輸入盤。国内盤の中に国内録音と国外録音。このへんはまあどうでもいい。ここまではまったく問題はない。

  問題はクラッシクとポピュラーの合体またはオムニバスの作品集の時だ。多岐にわたる「ジャンル」が含まれているため、右往左往、あっちとこっち、ついにはまいごのまいごのこねこちゃんとなる。ドウヨウするぜ。店員泣かせの代物だあな。ジャンルを超えた(気まぐれ)アーチストの場合がそうだぜ。キース・ジャレット、アストル・ピアソラ、クルト・ワイル、ジョージ・ガーシュイン、アンドレ・プレヴィン・・・。キースの弾くバッハがジャズの所にあったり、クイーンの「JAZZ」がジャズにあったり、グラッペリとメニューヒンのデュオはどこにあったか忘れたぜ。買うやつの方が全部知っちゃってるんだから、たぶらかすなってのよ。わが国の音楽邦楽コーナーは見なくちゃいけないな。

  邦楽ってけどなかみはほとんど洋楽だあな。純邦楽って云っている以外はみな洋楽のモノマネだ。ポップス ニュー・ミュージック 演歌 これみんな流行歌のたぐいは間違いねえ。 ――だけどよ、いつからこうやって分けるようになったんだい?昔ならコレみんな流行歌でくくっちゃってたぜ。ロックってけど日本のロックはしがない流行歌のはしくれだぜ。わが邦人「シャンソン」は?幸いにしてあっちの洋楽コーナーの方にしっかりあったがよ、本来ならばこっちだあな。なつメロという冗句のようなコーナーがある。これは別名あきメロといって、歌手人生の秋を迎えた人たちの、というイミと、棚の空をみつけてふさぐというイミがあるんじゃねえか。それじゃカナしいから、なつ、とくり上げしたんだろ。冬もの春もの秋もの。これがみんな冗句じゃねえが、あるってんだよ。ハワイアン、これが夏もの。Xマスソング、これが冬(12月)もの。べートーベンの第九、これが12月もの、こりゃおかしいやな。おいらハワイアン年中ききたいもの。今頃買いに行ってもおいてねえもの。正月にホワイト・クリスマス歌ったらだな、バカかって顔しやがるのがほとんどだからな。            あーあまたとしのくれ。ホワイト・クリスマスと第九か。ネコもシャクシもオタマジャクシもベートーベン、第九合唱交響曲。ふだんベントーくってベンすることしか興味がないような野郎が晦日になりゃあネクタイしめてさ。カラオケでエンカしか歌ったことないようなババアがドレス着て合唱団にまぎれこんでさ。ナアニ、いいことなんだよやりゃいいんだよ、不倫するヒマもなくなるしさ。だけどよ、だけど――ちょっと悲しかないか?ベートーベンがよ、ほかの作曲家もよ、音楽家もよ。第九だけじゃね円だよ、いい音楽 は、ふさわしい音楽は。こりゃサベツだよ。ブベツだよ、ムフンベツだよ、おノボリベツだよ。北海道じゃねえんだって。けっきょく大笑いの高笑いでウマイ汁すってんのは誰だってことだ。のせられんじゃーねーの。そりゃバブルの波にのせられてのっかって大損かいて吠え面かいたヤツからみりゃしあわせもんだけどよ。 

   だからさア、やぐらの上で三角野郎に音頭とられてすっかりのっかっちまったうすらトンカチの大ボケ野郎と、トントンカチカチ頭にくることもねえんだな。ウン。 だって昔から、大工にトンカチはつきものだもの・・・・。

 

 

 
5.  伴奏考               

 


  「おい!出る早々なに肩もんでんやね」 「肩がこってしょうがねえんだよ」 「しょうがねえんだよて、もう始まっとるんやで!ここステージやぞ。」 「ステージだって何だって、こってるものはしょうがねえだろ」 「しょうがもヘチマも台本にないことしてどないするねん」 「ゆんべ、営業で久しぶりにピアノひいちゃってさ」 「ナニ、営業? ひとりでか!」 「そうよ。歌バンよ。カワイコちゃんの。」 「ヒドイやないか。相方さしおいて」 「オレ、本業はピアニストだぞ」 「よう云うよ。ほなワイかて歌手や」 「ナニが歌手だ。カス、カスと組んでやってられるかってんだよ」 「ワイの歌バンがかい」 「冗談いうなよ。ふざけんな」 「よう云うよ。漫才もろくにでけんとって」 「そうよ、ろくにボケることもできねえよ。お前がボケだから」 「ほんならかわろか?」 「かわれよ。ゆんべのカワイコちゃんといれかえるよ」 「歌のカワイコちゃんに何がでけるかい」 「そうよな。歌手は何もできねえバカだから」 「何やて、おこるぞ。ワイも歌手のはしくれや。バカとは…」 「よくきけ、バカタレ、,歌手はな、バカなんだ。みんなバカなんだ、職業病っていうかな」 「ナニ!」 「バカでなきゃできねえ職業なんだな。漫才とちがって」 「スグ漫才師にもどりよった」 「ピアニストもそうだ、インテリだ。能なしじゃできねえ」 「ピアニストかてアホで能なしが多いよ」 「レベルがちがう。イヤ!そりゃバカもいる、大バカもな。 ン…ピアニストのバカはホントのバカだ」 「何やエラソーに。じぶんがそれやないか」 「イヤ、オレのことはさておいて、今日はその歌手とピアニストの関係について話そう」 「オイオイ,漫才や漫才。どーなってんねん」 「口ははさむな。さっき宣言したろう。お前とは解散するって」 「へ、こっちかて願ったりや。こっちゃもっと上等のやつと組むわい。カワイコちゃんでな」 「ホントのボケとは漫才にならねえぞ。…しかし、ゆうべのカワイコちゃんはバカのくせに歌も下手だったぜ」 「何ちゅう云い方や」 「下手だったらその分頭はいいはずだ」 「…お前、マタ…やったな」 「…マタ、やった。マタ、ウン、ジョートーやったぜ一つとりえはあるものだ」 「エゲツないやっち ゃ、ヨーイワンワ」 「エゲツないジムショにエゲツないタマと来た日にゃ多摩ランド読売ランド。安いギャラにゃ現品付だ」 「身売りランド、メンドーよう見らんど」 「…マ、今のはウソ全部ウソ!かく云う具合のピアニストはいたことはいただろう。が、そんな事実は目じゃない口じゃない鼻じゃない耳じゃない。ようく耳を洗え目を洗え鼻を向けろ本質を見すえかぎわけろ口をつつしめ」 「ようさん並べおって。何云うとる。」 「本質のバカ・ピアニストは」 「 ? 」 「伴奏屋のくせに分をわきまえず歌手の前にシャシャリ出るやつだ」 「とは?」 「歌手対ピアニストの、対決の次元ではない。音楽の本質の問題だ」 「きた」 「音楽は、メロディーがあり、コードがあり、リズムがあり、ベースがあり、この中じゃ何が主役か王様か。メロディーだ」 「メロディー、そらあたりまえや」 「この初歩の3歳児でもわかる事実に、何を考えてんのか、メロディーにおおいかぶさりのしかかり押したおし組みしいてパンツ脱がせて腰まで使うバカな伴奏ピアノを耳にすることがある。ブチ殺せよ。また、そのピアノに関心する興奮する陶酔する大バカヤローもいる。重罪だ。両方並べてパンツ脱がせて冷蔵庫にほうりこんでやれ。死ぬまで出すな」 「エライ、おこりようでんな。センセ。タイソーなことを考ええでもたかが音楽でんがな。冷蔵庫につっこみたいのはアンタの頭やで」 「さて、その逆に、熱湯にたたきこみたいやつが一方にいる。」 「ホオ、それは」 「それはメロディーに遠慮してクロコよろしく、女王様にかしずく召使いよろしく、ご機嫌うかがいのチョーチン持のタイコ持の、三尺さがって師の影をふまずの、あるじが求めりゃパンツまで脱いでみせる、これもまたトンチキのクソヤローだ」 「こんどはクソヤローときましたか」 「クソでも食らうを辞さない」  「そんな!」 「損な性分だ。要は頭がバカだ」 「じゃ、つまりは歌手は伴奏者よりはエライんであるな」 「バカ!それだからお前は大バカだっつうの。地位的にはタイトーなのだ。イヤむしろ伴奏者の方がエライ。」 「な、なんと」 「メロディーつうのは単音だ。単純だ。伴奏者は複音だ。複雑だ。とくにピアノはベースからオブリガードからコード、リズム…何から何まで一しょくたでしかも歌わせなくてはいけない。歌手をも歌わせなくてはいけない、心地よく」 「エライ恩に着せるで」 「しかもその成果は大体ほとんど歌手のものになる。」「ご不満でっか」 「いや、それは音楽的宿命だ」 「そやけど、ゆうべ聴いたジャズ,ライブの…」 「ジャズ!ジャズは別だ。あれは競演だ。伴奏じゃない。からみあいほぐれあいぬきあいさしあい…」 「セックスや」 「ロックなんてのも似ているがナ、実は似て非なるものがあるな」 「それはまた…」 「イヤ、それは言を閉ざそう。話がむつかしくなる」 「フクザツ」 「イヤ、単純だ、アレは単純な音楽だ」 「単純てか。ホントはロックなんて知らんのやろう」「知ってどうしようと云うのかね」 「なんやそれは!」 
  「あーあ、肩がこってきた,肩がこってきた。またヒドクなった。オイ、お前コーヤクあるか」「コーヤクてか。古いがな」 「トッコーヤクだ。じゃ、ピップエレキバン」 「ノウ」 「サロンパス…何でもいい。」 「なら、バンソウコウでも貼っとけよ」 「あ、それがいい、それがいい。ソレダ!」 「なんや、急によろこんでいきおいついて」 「オチがついたじゃねえか。バンソーコー。これでお後がよろしいようで」

 

 
6. 風が吹けば            

 

 

♪ オケで歌うはオペラの歌手か     カラオケつかうはオケラの歌手か      歌手のカスだとひやカスやつは
     馬にケラれて死んじゃいな     アーア~ア~ヤンナッチャッタ       アーア~ア~オドロイタ

 

  カラオケが日本に登場してもう二十何年、考えりゃずい分当たったもんで、最近シロート歌手、自称プロ歌手が巷に増殖しつづけております。イーコトですヨ、歌は世の為人の為、レコード会社の為。 そして事務所の為アーチストの為業界ハンエーの為、コレは大変なコーケンでしょう。 日本の平均音楽レベルも上がりました。 笑っている人もいるでしょう、が、泣いている人もいるでしょう。 風が吹けばオケ屋がもうかる。 風が吹かなきゃオケ屋はもうからない。

 

♪  オケやすたれりゃカラオケはやり   カラオケもうけりゃオケ屋はオケラ       オケラなぜ泣く水虫かゆい
   馬にケラれて死んじゃいたい        アーア~ア~ヤンナッチャッタ          アーア~ア~アオドロイタ

 

♪  オケケまるだしスッポン・ギャルや   スッポンスッポンフーゾク・ギャルや   ギャルはトクだよヌケミチあるよ
   ギャルソンソンだよヌケミチない      アーア~ア~ヤンナッチャッタ          アーア~ア~オドロイタ

 

  そうは云ってみたもののオトコだってヌケミチあるさな。 オトコヌードだって、ホスト・バーだって、それに御婦人ソープだってあるっていうじゃありませんか。 …けど、体力いるわな。 でも、人間、なんだって生きていけるもんだよ、なんだってやろうとおもえばやれるもんだって。 捨てる神あれば拾うカミさんあり。 カミユイの亭主にでもなりゃいいんだヨ。 カミユイって、古いんだってネ ―‐ ヘヤーデザイナーってえのかナ? アッチのヘヤーも、デザインするのかナ? そうでしょうな写真になるんだものな。 カメラマンもまたイイ商売だよな、音楽屋さん芸人さんってとこは、ヤクトクがありゃあせん、ましてあっしたち音楽漫談ときた日にゃァ…。(ナニイッテンダサッパリワカラン) 芸ジュツカ、なんてのは何やってもいいんだそうですね。 たとえば画家、コレはヘヤーを描こうが秘部を描こうが、何百年も昔からカンケイなかった。 彫刻家なんてのは、モデルをなでまわしつくしながら制作するんだってね。
  たとえばここで、このあっしが、パンツを脱いでヘヤーまるだしになって、そこのお嬢さんひっぱりあげてスッポンポンにしちゃって全身なでまわしなどしたら、どうでしょうタチマチタイホでしょう!――ゴメンナサイネ、アナタいいルックスしているヨ――

 

♪ 発禁ものなら何でも欲しい       発禁文学発禁絵画                   発禁ビデオに発禁どうぐ
   発禁ヤクなど格別に…           アーア~ア~ヤンナッチャッタ     アーア~ア~オドロイタ

 

  めっそう、めっそうもありませんナ、ケイサツの方、いらっしゃらないでしょう。  ところで、ハッキンといえば、この日本で発売当時からハッキンであったのに数十年間堂々と売られつづけているもの、ご存じですか。 ナニ、ご存じない。

薬局に行けば簡単に手にはいりますよ。 ハッキン・カイロ

 

♪  アーア~ア~ヤンナッチャッタ   アーア~ア~オドロイタ 

 

ヘヤー解禁だと思っていたら、こないだテレビであいかわらずボカシが入ってました。放禁は解かれてないんですね。

 

♪ 放禁ものには気をつけましょう          放禁用語に放禁写真                放禁音声放禁人相
   まるでオバケの声と顔                       アーア~ア~ヤンナッチャッタ     アーア~ア~オドロイタ

 

  こないだテレビをみていましたら、ナント、重要事件の証言者でもないのに、顔にボカシが入って出てきたので、誰だと思ったら高名なアメリカの物理学者、ホーキングでした。 コレはあんまりオモシロくもないデレクターの早とちりでした。 例えば、差別用語リストにある中の一つが、そのまま画面に実体で出てきた場合どうなんでしょうかねえ。 コトバの云い換えと同じような感覚で、画面にモザイク入れたりしたら――こら上ぬりの差別になっちゃうでしょう? 例えばブスが差別用語だとして、そのコの
顔にモザイクがかかったりしたら、本人はどんな気持になっちゃうでしょう。 あ然としてのち、すっかり打ちのめされるんじゃなかろうか。 女性心理として、自分はブスと思っていないか、おもってもまさかモザイクはかけられるほどには――。 まさにラク印を押されたようなものです。  「コトバと画とはゼンゼン別のものだ。 コトバとは生まれたイキサツに思い入れがイッパイはいっている。 今さらトボケたことを云うんじゃない。!」 とそのスジの方はおっしゃるでしょう。 でも、そのコトバと、表わされる実体とは、つねにイコールなのです非情にも。 背景がどうであれ思い入れがどうであれ、コトバは生まれたさきからドンドン独立し定着し記号化していくのです。 いくら云い換えてみても結果は同じ実体にゆきつくだけで、単に遠まわりするだけの話です。
  そのコトバを抹消するにはその実体を抹消するしかありません。 一言で云うなら、まさにキチガイはキチガイであって、それ以外の何ものでもない!  これがわからないのはまさにキチガイと云うことでしょう。

 

♪ 気違い部落に気違いピエロ       単なるタイトル槍玉にあげ         キチガイ沙汰だよキチガイどもめ
  これがほんとのハキチガイ        アーア~ア~ヤンナッチャッタ     アーア~ア~オドロイタ

 

  こんなことステージで云ったら、トンデモナイことになりかねないよと誰かが忠告してくれるでしょう。 マタ、ホントにこのあとソデか楽屋かにそのスジのヒトが――ンーなんでかしんないが江戸時代の長屋の元締めみてえな――大家連とかナンとかいうヤカラがすっとんでくるかもナ。 そんときのあっしの云うセリフまで、チャンと用意してあるわな。
  「オイオイ、貴様オレ様をだれだと思って物云ってんだ! 恥知らずも程々にしやがれ。 よく聞け、オレ様はキチガイだ、正真正銘ののキチガイ様だ! 貴様らキチガイをヨーゴするのが大義名分の団体じゃねえのか。 それをキチガイに文句つけにくるたァとんだおおバカヤロウーだ。 出てうせろ、このキチガイどもめ!」
  そーオデス、ワタシはキチガイなんでス。
  
ウワハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ                                                                                          

                                                                                                                       了

 

 

7.   吾輩は地球である            

        

  吾輩は地球である。異変はまだ無い。  いつどこで生まれたか噂かとんと関知しないが、人間界ではも早根強い噂らしいが、吾輩45億年の半生を顧みてみれば、いつ起きても可笑しく無いと言う。そう言われればこの前の異変はいつの頃だったか、などと言われてもとんと憶えて居らぬ。この頃いささか年をとったせいか物忘れが発生して困る。少し古い事となればよく憶えて居るんだが。吾輩45億年の歴史の節々にはわが体内に確かにインプットされて居る。大異変、大変動、大騒動、大爆発、それらはまあ確かに人間などの想像を絶する世界だ。想像を絶する、は然し人間共の感覚になり代わっての表現であって、吾輩の感覚で言うなれば、想像を絶するの一事は何と言っても人間出現の一事であろう。わずか数万年前の事とてよく憶えて居るが想像外の生物出現,奇体で変態で怪体で珍体,年ごとに進化発展するごとにその感を強くしていったのだ。おかげで、以来吾輩の生活サイクルが変った。それ以前の、いわば一万年単位,十万年単位,千万年単位でしかないようなサイクルの、今思えば退屈であくびが出るような生活が、すっかり様変りしたのだ。ここ数千 年はすっかり人間共のサイクルに吾輩が降り回されて居るような仕末に思える。皮膚に繁殖する微生物の一つ位に考えているととんでもない。皮膚に穴をあけるは山を作るは溝を掘るは海を埋めるは、天からの授かり物は先刻承知の吾輩の体部分々々、他の生物達をも一切顧みず人間固有、個人々々の所有物ときめこんで疑わない。何にしろ目出度いせわしない節操ない生物であるから,四六時中所せましと動き廻る。


  もしここで人間共四六時中体中無数の虫に這い廻り続けられたら、如何なる状態になるか想像するだに苦笑を禁じ得ぬ。
  ぶんぶんぶんぶんムズムズムズムズひゅうひゅうひゅうひゅうピカピカピカピカどかんどかん…この状態での吾輩は、自然に新陳代謝が良くなり、内臓の活動も日増しに活発になろうと言うものだ。
  人間も人の子吾輩も天の子太陽の子発熱もすれば発汗もすれば悪寒もすれば苦沙弥もする。あくびも出りゃおくびも出りゃ涙もでりゃよだれも出る。嘔吐もすりゃ下痢もすりゃ便秘もすりゃ放屁もする。
人間共は吾輩が何かの生理現象を起こす度、異変だ、異変の前兆 だと騒ぐ習性がある。
  「地球を救おう会」なる類が人間界の其処此処で発生して居るらしい。どうも吾輩にしてみれば片腹痛しが正直なところだ。吾輩に現在何の危機も訪れてないし、何の悩みもない。まして人間などに救いを求める程に落ちぶれてはいない。つまる所その看板は勘違いの書き違いで「地球」は「人間」とかきかえるべき物ではないのか。自分達で勝手に便所を汚しておいて使えなくなったもので便所を救おうじゃないかと声を上げるようなものじゃないか。
  オゾン層に穴があこうと黒い雨が降ろうと赤い川が流れようと森林が野垂死しようと、吾輩、痛くも痒くも無い。たまには変った環境でゆっくり熟睡してみるのも一計だ。
  そうだ、思いついた。吾輩の願望、吾輩を救う唯一の方便、これは他でもない、人間共がそっくり消滅してくれることである。一つの種族を抹殺してしまう事は淋しいが、ほかの幾千万の種族にとってこに勝る僥倖はない。「地球上の独裁者」は消える訳だ。人間亡き後他のすべての生物は活気を取り戻し、動物植物共々ライフ・サイクルを正常に甦らせ、人間共が能書倒れになった「共存共栄」を復活成立させる・・…あッ、そうそう、これあ吾輩粗相をした縮尻った。また物忘れが災いする処だった、この文は人間向けに書いているのだ。必ず没になるを解って原稿と労力を無駄にするものか。訂正する。
  吾輩にとって、やはり人間の存在は必要欠くべからざるものなのだ吾がライフ・スタイルに刻々の楽しみと夢とテンションを与え続け、とどまる事を知らない。常に進化し物を考え物を作り、改良し成功し失敗しくり返し反省し廃棄する。従って吾が地球は変貌し続ける。一方「地球を救おう会」の一派は心配し続ける。「これじゃ地球は傷だらけだ。治療不能の患者にしてはならない。否すでに取り返しのつかない大怪我をしている」
  はてさて、いつまでも賑やかなこと。吾輩と来たひにゃ、どこ吹く風、何をされても屁でもない。人間共の一人相撲の為の丸い土俵だ。傷だらけなのはお前達人間達生物達の方だ。
  吾輩だって、人間並みのレベルで見りゃ、怪我はしている。病んでいる。満身創痍は本当だ。だがダメージという言葉は吾輩の辞書には無い。それは変化だ変貌だ。過去を見れば解る。だが、いざとなったら自癒能 力というものがある。
――吾輩と吾輩の生物達――全て天の営み、天の恵みと言うか、天然現象と言うか。
  所が、この天然現象天の恵みと言うものを、すっかり忘れかけて居る
――のが人間共の最近の現状だ。医学とやら科学とやら何やら知らぬが、「一寸待て、注意一秒,怪我一生」を使いたくなる。
  尤も、人間も天然現象の産物、従って人間のなせる業全ても天然現象である、と考えれば解決する訳か。とすると吾輩の余計な思い過ごだった訳だ…。
  わははははははは、すまないすまないこりゃすまない。

 
 

 

bottom of page