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エッセイ

 

会報 るぽあん通信から抜粋した記事をご紹介しております。

 五十嵐顕男さのいた頃           佐野加織                   るぽあん通信第33号  2014.9月発行より

 

  堀内環門下生で、私の先輩になります。その頃みんな夢をもってシャンソンの門を叩いたのでした。五十嵐さんは当時の時代に合わせちょっとヒッピー、何かを求めている風、どこへ行こうか定まらず、まだまだ迷っている風。今よりずっと緩やかに時間が流れていました。

  銀座のシャンソンバー「蛙たち」のレギュラーだった五十嵐さん。私はその近くのシャンソニエ「マ・ヴィー」で歌い、時々「蛙たち」でも歌わせて頂きました。その頃の銀座のシャンソニエでは、赤坂の「ブン」でもそうですが、お客様の入れ替えをするほどお客様が入っていたのです。私はほんの駆け出し、並み居る先輩、超美人歌手、この世の裏も表も知った立派面の大人歌手。心を若さでふっ飛ばし、私はいい歌が歌いたいと毎日歌っておりました。声を掛けてくれた人は(もちろん用事やご挨拶、ご注意はありますよ)五十嵐顕男さんひとりでした。「いつか一緒にコンサート」やりたいね」「歌がとても面白いよ、そのまま行けばいいよ」「大人の歌が歌えるようになったね」。時々、ポツリと言って下さる仲間はそんなにいるものではないのです。業界では基本、言わぬが花に限りますものね。でも、その優しさがとても嬉しかったので、その後、私も心細くて戸惑っている新人の方などには声を掛けて優しくしたつもりでいます。

  五十嵐さんは夜のメロディー」「街角のアヴェマリア」「ユエの流れ」「愛は君のように」などをよく歌っていました。とても心に残る、力強く希望に満ちた忘れられない歌声でした。今も私の耳に残っています。「愛は君のように」を訳詞した五十嵐さんのお人柄が偲べます。

  そんな彼でしたが残念!ある日、妻子を連れて遠くギリシャへ旅立ってしまったのです。ギリシャの音楽に惹かれたのだと私には云っていましたが深くは話せませんでした。そういえば彼の風貌、ムスタキのようでしたものね。昨年2013年10月に日本に帰国、永住を決めていた五十嵐さん。「シャンソン界を何とかしようよ、盛り返そうよ」と言われ、希望に満ち、演出をやろうという矢先の癌の発見、そして入院。今年1月10日に今度は本当に「さよなら」しててんごくへ行ってしまったのです。亡くなる前の1月7日、土岐能子さんが、お見舞いに駆け付けた折、たまたま私の話になり「佐野加織、知ってる?」と聞いたら「よく知っている」と答えたそうです。ギリシャで30年以上も過ごし、やっと日本に戻ってくれて「一緒にコンサートやろうよ」て言葉が今度こそ実現したかもしれないのに哀しいです。でも、若い日の彼の姿しか知らない私は、今も心にその歌を聞き、優しさを感じているのです。

 追伸 五十嵐氏は1975年よりギリシャに滞在し、舞台芸術を学ぶ傍ら、日本とギリシャ間の芸術交流のために数々の事業を企画・演出活動を活発に行っていました。2008年6月12日、北村駐ギリシャ大使は、当時ギリシャに住んでいた舞台芸術演出家、五十嵐顕男氏に対し、長年にわたる日本・ギリシャ間の文化相互交流のための献身的な活動に対し、感謝の意を表し在外公館長表彰を授与しました。日本に帰国後も演出家として活躍していました。

 

  歌手として王道を行くイブ・モンタン      佐野加織                るぽあん通信第32号 2014.7月発行より

 

  イブ・モンタン、彼の名は私達シャンソンを歌うものにとって永遠の憧れだろう。アズナブール、ベコー、フェレ と素晴らしいシャンソンのシンガーソングライターを挙げたら枚挙にいとまがないのだが、モンタンは歌手なのだ。たとえば、シンガーソングライターだったら、もちろん自作の歌にこだわるし、少しの例外を除けばむしろ自作の歌しか歌わない。モンタンは歌手の特権として気に入った歌、素晴らしいいアーティストが作った歌を歌う。彼らアーティストはモンタンに歌ってほしくて精魂込めた極上の歌を提供する。だからモンタンのアルバムは一曲としてつまらない選曲はしていない珠玉の作品集なのである。シャンソンの花束なのである。しかし忘れてはならないのは、多くのスター歌手がそうであるように、モンタンは天才ではないということ。あの素晴らしい身も心も魅了される歌声、洗練された身のこなし、すべてが自然に兼ね備わっているかのようなステージ(映像でしか見たことがないが)、あれは何千回も自宅で練習を重ねた証なのだということ。一度モンタンのアルバムを聴いてほしい。彼の歌の流れる部屋。そこに障子がはまっていても、もうそこはパリなのである。

 

 シャンソン歌手 高野圭吾さんの事     佐野加織                   るぽあん通信第30号 2013.7月発行より

 

  高野さんが逝って7年が過ぎた。まるで長年の恋人を亡くしてしまったかのように、いつまでもいつまでも哀しく、心の中にポッカリト穴が空いている。画家で、訳詞家、その高野さんの歌を10代の私が初めて聞いたのは銀巴里。最初、上手な歌手だとは思わなかったけど、「バラは咲かない このバラ通りに、バラ通りという名だけ残して・・・。愛し合おう、5月のように、冬のひっつめ髪も愛のために寝乱れるだろう・・・。醜い者達が美しさを取り戻し,弱い者が命と力を・・・。そして今、いくつもの夜と季節をやり過ごし、果てしない約束を戸棚いっぱいいっぱいに仕舞ったまま・・・。」などと歌う世界は、当時全く田舎娘であった私の心に多くを残していった。それ以来、私は高野ファンで、私のコンサートのゲストとしても2度お呼びしている。けれどもうあんな歌を歌う人はいない。あんな歌は聞けない。パリの下町を流れていくアコルディオンの調べのように軽妙でかつ親しみを込め、切なさと懐かしさ、生きる苦しさ、そして愛・・・。こんなに高野さんの歌が好きだったのに、そんな気持ちを伝えることもなく、何年も逢わないで、お元気だろうと勝手に決め込んで。あんなに仲間から慕われ愛された歌手もいない。逢う人逢う人が高野さんの思い出を宝箱からそっ取り出すようにして語る。高野さんの形見のライターでたばこに火をつける度に彼を思い出す人、高野さんからの手紙の封のハート形のシールを今も大事にしている人、この私も彼との接点の中で交わした言葉、感情を大切な宝物としている。私はそんな高野さんへの人々の思いを子守唄のように聞きながら、まだ恋焦がれている。

 

  『ブン』様へ     佐野加織                             るぽあん通信第27号 2011.11月発行より

 

  「ブン」が閉じてしまう。消えてしまう。赤坂見附一つ木通りのあの小さな店。トレネの似顔絵の青い看板の店。小さなドアをそっと開けると、そこはパリのシャンソニエ。シャンソンが溢れ出す店。聞くのが好き。本当にみんなシャンソンを愛していた。今日はこの歌を聞いて頂こうという気持ちを持って。小さな店ゆえにマイクは持たず、ただ歌う。客に媚びるなど絶対なし。ピアニストだけが頼り。孤独の歌手を淡いピンクのスポットライトが温かく照らし続けてくれていた。オーナの古賀力さんの辛辣な酷評も、まれに見せる嬉しい一言喪、シャンソンを語る情熱もポィシーもみんな「ブン」だけのものだった。私はこっそりそれらの言葉を心のポケットに仕舞い込んだ。

 忘れられない思い出に、私が銀巴里のオーディションを受ける時、当時22歳の私としては、若々し曲でアダモの「夜のメロディ」「君を愛す」でどうかと古賀さんに相談したことがあった。「自分の好きな曲がいいよ」と一言。私は「クリザンテーム」「アムルーズ」と、審査員の誰も知らない2曲を歌った。そしてその年、合格した。

  沢山の沢山のシャンソンを聞いたブン。歌ったブン。有難う。12月のブンのサヨナラコンサートはには古賀さんが喜んで聴いてくれた「キャバレー」や「ジンハウスブルース」などお気に入りのブルースを歌ってみようと思う。

 

溶けて我が身もただよはむ  宮クラス こだまみえこ         るぽあん通信 第26号 2011 7月発行より

 

その女性の名は佐藤淳子さん。学生時代の友人で、結婚も出産も同時期、実家から遠く離れた生活にお互いを重ね、 年に数回のやりとりで励まし合っ てきたような気がする。今回の東日本震災にて 彼女は津波  に流され、 54年の生涯を閉じた。 彼女の学生時代からの彼(夫)は岩手県出身で盛岡や一関に長くいて、 3年前に陸前高田に引っ越したばかりだった。

物静かでいつも笑顔の彼女は視聴覚障害者の支えとして、しっかり地域に根ざしていた。

 

  地震から1ケ月後、自宅から  10キロ流されたところで奇跡的に遺体が発見された。 確認の手立ては 握り締められていた愛犬の真っ赤なリード。  20年前に息子を、 10年前に娘を亡 くしなが ら、ふたりの息子さんをしっかり 育てた淳子さん。連絡もままならない状況の中で、毎日ブログを綴っている私は、彼 女の ジャーナリストの息子さんのブログと 大学生の息子さんのメールを通して連絡が可能 になり、私たちが広島での告別式に参列する運びとなった。

 

また、 短歌を詠む彼女の最後の句となったのは、まさに自分の最期を歌っている  

 

「海霧に溶けて我が身もただよはむ、川面をのぼり大地をつつみ」 

 

なぜ,淳子さんだったのか…

 

先に行われた盛岡の告別式後の納骨予定も、直前の大雨と雷から延期になり、 広島での告別式の後となった。故郷に帰りたかった彼女の一途な気持ちが通じたような気がした。 遺影は息子の携帯写真の画像で、ピンクのバラのむこうで、ちょっと寂しげに微笑む淳子さん。

 

 陸前高田病院の副院長として、2日間、妻の行方不明も知らず、不眠不休で仕事をしていたご主人様。4階の病室から襲ってくる津波をとらえた写真は衝撃的である。

 

 細い身体で妻として母として、目の不自由な方の目となり耳の不自由な方の耳となり、近々、短歌集も出す予定だったそうだ。

 

 岩手の美味しいりんごが、わかめや海の幸にかわって、お互い子育てもようやく一段落、今年こそ遊びに行くよ、と行っていた矢先のこと。昨年末に、息子の写真がカレンダーに採用されたと、送ってくれた。 添えられた手紙には、今年の津波の影響で海産物に被害が出ている、来年は何事もなければいいな…とあった。

 

 私の心にぽっかりとふさがらない穴があいている。無力ながらも、生きていることへの感謝と、 淳子さんの岩手での32年の幸せな生活に想いを馳せ、 残されたご家族へのご多幸を祈るばかりである。先に逝ったふたりの子供たちと天国で笑いながら暮らしている淳子さん、 あなたのいない岩手への旅はいつになるのか。

 

 

「百万回生きた猫」 カフェ ZAPPA店主 山田 幸子            るぽあん通信 第26号 2011 7月発行より

 

 百万回生きた猫がいて、百万回死んで百万回生き返りました。 猫は自分のことが大嫌いでした…で始まるこの物語。 ある人から「この猫が初めて好きになる猫は美しい”白“猫である。 これは人種差別だ。認識が甘い。 疑問を持つべき」という意見を貰った。 私は何の意識もなく長年読んでいたものだから、このことについてことあるごとに考えてみた。

 

作者に聞くことはできないけれど、私は愛するということは○○だからという理由はないと思う。そもそもこの物語の白猫は「あ、そう」としか言わない。そんな女はいない。つき合えば何だかんだ文句を言い、ぶつか り合ったりするものだ。「あ、そう」としか言わない白猫は私の息子のようにちょっと頭の弱い子(うちの息子は養  護学校高等部2年生、自閉症)かもしれない。 頭が弱くて も 私は自分の息子が好きだ。 愛する者が黒くとも白く も、多少頭が弱くともそんなことは関係ない。

 

映画「息子」(山田洋次監督、1991年作品)のなかに好きなシーンがある。 ある青年がある女性を好きになるが、 同僚に「ほら、あの子は耳が…聞こえないから、やめ とけ」と言われる。  青年は「だから、なんですか!」と何  ども叫び暴れる。  理由づけされることに激しく抵抗し  いる。 愛の前では黒もまだらも白も関係なく、 作者の  佐野洋子はだから・・・白でもいいと思ったと私は薄ぼんや  り思っている。 そしてこんなことも思う。  愛を求める  子が親の理由ずけでどれほど苦しんでいるのか。 成績が悪いから、言うことを聞かないから、 悪いことをしたから。 もっと wholeで愛して、 と願う。  そうすれば、 失敗しても恐れることなく次の1 歩が踏み出せる。

 

 

 友人に届いたある手紙               るぽあん通信 第26号 2011 7月発行より

 

 この手紙は佐野加織の古くからの友達である峰岸佑企子さんの元に届いた手紙を差出人〈植松氏〉の許可を頂いて掲載するものです。

 

前 略 

  写真とCDのお礼が遅くなり失礼しました。本当にありがとうございます。頂いた日より佐野加織さんのCDを毎夜聴いています。最初は今まで聴いて来た歌手の歌とは歌い方がちょっと違っていて、奇異に感ずる所もありましたが二度三度聴くうちに〈こりゃすごい!〉と納得、魅せられています。シャンソンの姿を借りているけど仏国のものではなく、日本語で歌われているけどそのまま日本ではない。ペタさんが『富士の大地』に根ざしていると評していたけど全く同感です。『日本』などという曖昧な概念の埒外にあって、正に富士の裾野の上に暮らす人がその土地で醸す魅惑的な歌空間の立ち上がりを感じました。まるで天から哀しみや、今は亡くなったKの美しい思いが降ってくるみたい。言葉が澄んで浸みて来ます。このCDはバックの音楽が又すばらしいですね。一曲一曲趣向をこらし、丁寧に音作りを楽しんでやっているのが分かります。佐野さんの歌を支えるに留まらず、声と楽器の見事なコラボレーションとなっています。ペタさんをはじめ演奏者にエールを送りたいです。

  お蔭様で娘たち(といっても早三十四,三十一,二十四歳のもういい大人ですが)への今年のクリスマスプレゼントはこのCDに決めました。峰岸さんと佐野さんはお友達ですか?。貴女の訳詩を歌っておられるのですね。ネットで調べましたら、佐野さんは高野さんとも親しくされていたようですね。高野さんは本当に多くの人に愛されていたんだなあとつくづく思います。私にとっては無縁の歌手だった佐野加織という人が今は好きな歌手となりつつあります。峰岸さんには感謝しています。さて来月、高野圭吾)追悼訳詩コンサートは大いに楽しみましょう。

 

平成十九年十一月六日 植松 圀夫

 

峰岸 佑企子 様

 十回のステージ    富士クラス   川島 敏弘    るぽあん通信 第26号 2011 7月発行より

 

 近頃感じていることを独善的に自分自身の経験から書くことにしました。(シャンソンを途中で止めたいと思っている方へ)

 まずは十回のステージを経験しましょう。それから止めることを考えましょう。

 

私は未だ十回までには何回かのステージを残していますが、回を重ねるごとに〝あがり″かたが少なくなって来た様な気がします。最初のステージでの〝あがり″方と比較すれば雲泥の差ですね。やはり三年は我慢の子ですね。よく云われる自分の心の表現なんてまだまだ、それでも暗いトンネルの先にやや灯りが見えてきた様です。あがらなくなるには自信が第一と自分に言い聞かせ、一にレッスン、二にレッスンだと思います。

 

レッスン→自信→ステージ→失望→レッスンの繰り返しでしょう。この単純な繰り返しのなかで〝あがる″と云う重石(おもり)が取れるのではないかと悟りました。壁に突き当たる度にシャンソンを止めようかなと思ったりしましたが、その壁を乗り越える手段として私は一時、封印していたカラオケを歌ってみることにしました。カラオケでは伸び伸び歌えるのに、この程度シャンソンが歌えたらと何度思ったことか。カラオケを自信喪失の起爆剤にしたこともあります。壁を一つ一つ乗り越える手段は各自で工夫されたら如何でしょう。それが悟りにつながっていきます。プロにならないのだから下手でもよいという自虐的な妥協は〝嘘″、やはりうまく唄うためには壁を乗り越えた時の納得のいく積み重ねでしょうね。カラオケとシャンソンの端的な違いである曲にメロディがついているカラオケとメロディを自分で作っていくシャンソンとでは、カラオケ育ちの私の耳には未だに大きな壁ですね。(音符が読めないことも理由の一つですが)ともうれうまく唄えた時のステージでの三分間の主役、非日常的な瞬間、だから素晴らしいし楽しい。

 

 歌えるしあわせ    宮クラス こだまみえこ          るぽあん通信 第26号 2011 7月発行より

 私は四国、坂出市で生まれ育ちました。瀬戸内海にのぞむ海と山の幸に恵まれたところです。瀬戸大橋が出来るまでは八時間かかっていましたが、今は四時間半で着くようになりました。夫も広島出身。ふとした弾みで住むことになった富士ですが、いつのまにか子どもたちのふるさとになっています。それぞれの両親が元気に過ごしてくれるおかげで私は富士で好きなことをしていられます。歌うことができるこの環境と周りの方に感謝しています。

 

 るぽあんのお仲間に入れていただいて「私は歌が大好きだった」ということを発見しました。現在、東京と行き来する身にとって、歌は身ひとつでO    K、泥棒にもっていかれない財産となりつつあります。七月には二回目の巴里祭(はじめての発表会)を迎えます。愛を歌うシャンソンが大好き。声に出せない言葉、言葉に尽くせない想いを詩とメロディで表現できる幸せを感じています。加織先生のもとで皆様と共に長く歌っていきたいと感じています。

 

 佐野加織に乾杯!  河田 黎 (シャンソン歌手)            るぽあん通信 第26号 2011 7月発行より

 

 「佐野さん!三十五周年記念コンサート、おめでとうございます」 母上亡き後、父上を気遣って帰郷された貴女は、優しい娘。幼い子息達のため、歌を止めた貴女は、健全な母親。色々悩みはあったことでしょうが、歌に対する思い、情熱は誰にも負けない貴女は、地元に見事に根を張り、立派な花を咲かせ大歌手として、復活を果しまし仲間の一人として、こんなに嬉しく、また、心強いことはありません。記念コンサートでも、独特の朗々たる美声で、辺りを席巻してくれることでしょう。情熱の人 佐野加織に乾杯!

 

 郷愁の歌手      佐藤 風太 (ギターリスト)              るぽあん通信 第26号 2011 7月発行より

 

 佐野加織の唄を聞くのは秋の夜、ひとりで聞かなければならない。 あの頃、共に旅した、夢求め、野や村を…。「物語とは歳月のこと」遠いあの日のあの街角…。歳月とは、過ぎて行った過去。…季節のない旅に、遠 く、遠く…。過去はまるで昨日のことのようだ。夢を見ていた、リラの香りに包まれながら…。三十五年前、笑いあった人たちは…。今は聞こえない子供たちの声…。」 この声こそシャンソンのエッセンスそのもの。郷愁の歌手 佐野加織。

 

 2006年7月号より (第5回発表会特集より抜粋) 

 

シャンソン歌手で訳詞家の高野圭吾さんが昨年暮れ十二月十九日に

心不全のために亡くなりました。享年七十一歳。札幌出身で、ジョル

ジュ・ムスタキの「時は過ぎてゆく」「シャルル・トレネの「幽霊」

ほか数多くの訳詞を世に送り出した大先輩です。

 

 シャンソン歌手 高野圭吾さんの事        佐野 加織   2006年7月号より (第5回発表会特集より抜粋) 

 

  高野さんが逝って早いもので半年が過ぎてしまった。まるで長年の恋人を亡くしてしまったかのように、いつまでもいつまでも哀しく、心の中にポッカリと穴があいている。画家で、歌手、訳詞家、その高野さんの歌を十代の私が初めて聞いたのは銀巴里。最初、上手な歌とは思わなかったけれど「バラは咲かないこのバラ通りに、バラ通りという名だけ残して:。愛し会おう、五月のように、冬のしているひっつめ髪も愛のために寝乱れるだろう::。醜い者達が美しさを取り戻し、弱い者が命と力を::。そして今、いくつもの夜と季節をやり過ごし、果たしてない約束を戸棚いっぱい仕舞ったまま:」などと歌う彼の世界は、当事全くの田舎娘であった私の心に多くを残していった。それ以来、私は高野フアンで私のコンサートのゲストとしても二度お呼びしている。けどもうあんな歌を歌う人はいない、あんな歌は聞けない。パリの下町を流れてゆくアコルディオンの調べのように軽妙でかつ親しみを込め、切なさと懐かしさ、生きる苦しさ、そして愛:。こんなに高野さんの歌が好きだったのに、そんな気持ちを伝えることも無く、何年も逢わないでお元気だろうと勝手に決め込んで。あんなに仲間から慕われ愛された歌手もいない。逢う人逢う人が高野さんの思い出を宝石箱からそっと取り出す宝物のようにして語る。高野さんの形見のライターでタバコに火をつけるたびに彼を思い出す人、高野さんからの手紙の封のハート形のシールを今も大事にする人、この私も彼との接点の中で交わした言葉、感情を大切な宝物としている。私はそんな高野さんへの人々の想いを子守唄のように聞きながらまだ恋いこがれている。私の中学時代時代からファンだった岩城宏之さん、私の歌を「リラの香りがするようだ」と誉めて下さった岡田真澄さん、ご冥福をお祈りします。

 

  復  活          富士クラス 鳥居 孝雄              2006年7月号より (第5回発表会特集より抜粋)

 

 昨年の7月末の暑い日の夕方、畑仕事に出かけ、くも膜下出血で倒れてしまいました。幸いにも通りかかった近所の伊藤歯医者さんに発見され、すぐ救急車で中央病院に運ばれ手術を受けました。それから五ヵ月入院し、治療を受けた結果、幸いにも言語障害もなく、身体の機能障害もほぼ回復し、十二月に退院しました。退院後は、加織先生のご指導と仲間の皆さんの暖かい励ましのおかげで皆さんと一緒にまたステージで歌うことが出来、感謝の極みです。まだまだお聞かせするレベルではありませんが、回復の状態を聴いていただければ嬉しいです。これからも命のある限りシャンソンを歌い続けたいとおもいます。

 

 歌ある限り           宮クラス 山本 芳子           2006年7月号より (第5回発表会特集より抜粋)

 いつの間にか遠い遠い思い出のみが印象深く残る自分になってしまいました。生まれ育った大地の中で常にどこからか歌声が聞こえていました。歌は大好きと、学生時代もコーラス部に籍を置き、楽しい思い出、忘れられない思い出、歌と共に懐かしく思い出します。終戦と共に生活も一変し、口から歌声が消えた時期もあり苦しい日々でしたが、心の中には歌声が残っていました。悲しい時には悲しい歌、楽しい時には楽しい歌と、でも軍歌だけは二度と口にしたくありませんネ。昨年十一月孫娘のロスでの結婚式に参列し、思いがけない体験をしました。その時、突然の依頼で私は『愛の讃歌』を歌ってしまったのですが、その歌を聞きながら涙している花嫁・花婿の姿を目にし、祖母としての願いが伝えられた思いで忘れられない一ページが出来ました。私は唄いたい、愛を込めて、燃えるる命ある限り。

 

 『街』に寄せて     ラ金クラス 澤 レイ          2006年7月号より (第5回発表会特集より抜粋)

 

 「日も暮れよ、鐘もなれ、月日は流れ私は残る。」 生活の中で何か心弾むことをと思い立った時、そこにシャンソンがありました。シャンソンについての知識と言えばモンタンの『枯葉』やアダモの『雪が降る』などがせいぜいで知識も無ければ歌ったこともありませんでした。しかし加織先生の熱心なご指導が度重なるにつれ、感情移入の不得手な私としては、とんでもない難しいことに足を踏み入れてしまったと言うのが正直な心境です。今回、生まれて初めての大舞台で「街」を歌うことになりましたが、歌えば歌うほど難しい曲だと分かりました。淡々としていて実は細やかな陰影のある曲で、心の故郷であるこの「街」を優しく、いとおしんでいる美しい曲です。シヤンソンは心で歌うとはよく耳にする言葉ですが、徒ずらに表面的なことだけに気をとられ、街への思いを自然体で語りかけることができません。先生が歌われるのを何十回となく聞くにつけ、何と温かく美しいのだろうと吐息ばかりです。でもシャンソンと何気ないけれど素晴らしい出会いを持ったのですから、この思いを大育てていきたいと思います。

 

  私の心の支え        富士クラス 芹沢 由美子                 2006年7月号より (第5回発表会特集より抜粋)

 

  主人の転勤で富士に住み始めて三十余年、振り返るととても淋しく悲しかった想い出も今は懐かしく思い出されます。社宅の友人との家族ぐるみのお付き合い、子供を通しての友、サークルの中で沢山の人を介しての触れ合いの中で、友人との「和」感謝を学んだ私です。数年前:主人を亡くして人生の岐路に立たされた私を、叱咤激励し、身体の不自由な私の為にいろいろと援助してくださった友、弟妹達が遠くにいる私には、その行為がどれほど有難く嬉しかった事でしょうか!今も尚、おんぶに抱っこで、友人に支えられ励まされてEnjoy人生を送っています。これも一重に友人達のお陰と深く感謝しています。私にとってお友達は心の支えであり、何にも勝る財産だと思い、これからも大切に育んでいきたいと願っています。

 

 

 

 『るぽあんしゃんて』10周年を祝う     富士クラス 鳥居 孝雄      るぽあんしゃんて通信 2004年5月(8号)

 

  佐野加織シャンソンサークル『るぽあんしゃんて』が十周年を迎えた。まことにめでたいことである。最初から続けてきたメンバーは、感慨もひとしおのことであろう。シャンソン人気も昔ほどでなく、テレビやラジオからシャンソンがあまり聞こえてこない時代に、サークルとして十年間シャンソンを歌い続けてきたということはすごいことである。」

  現在『るぽあんしゃんて』は、富士宮に2つ、富士に1つのサークルがあり、合同で年に2~3回の歌会という学習発表会を行い、隔年に1回の発表会を開いて日頃の練習の成果を披露している。会員も25名になった。全員が中高年層で(本人は若いと思っているが)、女性が多く、男性は4人しかいないのがちょっと残念である。が、仲間と歌う事は最高に楽しい。

 そして嬉しいことには佐野加織さんのコンサートだけでなく、私達の歌会や発表会にも多くの方たちがシャンソンを聴きに来てくださることである。シャンソンが好きな人、シャンソンに興味のある人が意外に多いのである。これは富士地区にシャンソンの種を蒔いてくれた佐野加織るさんの功績といってよい。ここまで育ってきた芽を大切にして、シャンソンの輪をさらに大きくしたい。

 シャンソンが好きな方は、聴く側から歌う側に入っていただきたい。初めは誰でも不安だが1年もすると、みんなシャンソンがうまくなり、人前でも堂々と歌えるようになる。私自身、66歳で仲間に入れてもらい、今年で5年になるが、今ではシャンソンがなければ生きていけないほどになり、シャンソンの仲間の一人一人が自分にとって大切な宝物のような存在となり、自分の人生が楽しく、豊かになった。シャンソンをやってきてよかったと思っている。今日もさわやかな新緑の中、シャンソンを口ずさみ、幸せを感じながら五月の町の中を歩いている

 

 メンバーに支えられて10年間      白糸クラス 遠藤  みち子  るぽあんしゃんて通信 2004年5月(8号)

 

  10年、はやいですね。身体が思うように動かない私がこんなに長く続けられてこれたことは、本当に嬉しいいことです。『歌を習いたい』 先生に意思を伝えたものの、不自由な身体でみんなと一緒に歌うのは無理だろうな。そんな気持ちから半分は諦めていました。しかし、その意思表明から半年後『白糸クラス』の形となって加わることが出来ました。この10年、深みのある充実した日々を過ごしてきました。それは支えてくれたメンバーがいたから。感謝の気持ちでいっぱいです。

 

                  

  歌歴  そして 表現すること      佐野 加織           るぽあんしゃんて通信 第2号 2000年冬発行より

 

  31歳の時、それまで曲がりなりにも唄い続けてきたシャンソンをやめたことがあった。 子供ができたというのがどうにもならない現実だけれども、もう一つの私の心のなかに、今までのものとは違うもの、別の何か他の場所に行きたいという気持ちが大きくあったと思う。 長年頑張ってきたものなのに さよなら という時のさわやかな興奮はたまらない快感であった。 別れを惜しんでくれる歌手仲間にこうも言っていた。 「歌って10年やっても本当に自分のものになったのは(今考えると僅か10年であったのに)1曲あるかないかだよね。でも子供は10年経てば10歳になるんだもの。」 

  それから8年、人から見ると子供2人、山猿のようだが、私なりに子育てに充実し、それに埋没した素敵な場所であった。 その子が小学1年の時からまた古巣シャンソンに戻り歌いだしたのが今の私に続いている。 しかしその31歳の時への「さよなら」を思い返してみると私の歌に対する思いに、あの頃と違うものがあると感じ始めている。 きっとその頃の私は1曲でも増やして頑張って唄っていただけなんだろう。 青春に身を委ねていたのだろうと・・・・・。長い間私の中で少しずつ芽生えていた、あえて歌う意味  それは表現できるという幸福。 あれやこれや様々な感情、喜び、悲しみ、日々過ぎてゆくはかなき虚しさ、憎しみ、妬、やりきれない不信,後悔,死、どうして人はこんなにも複雑な芥のような感情を胸に押し殺しながら生きていかなければならないの・・・。

  分かって、私を分かって、という声がいつも聞こえてくる。 今、私はそんな心の中を歌っているような気がする。そんな私の心の表現に、解りあえる人もいるし,解りあえない人もいる。 解りあえる時もあるし、解りあえない時もある。ただ、嬉しいのは歌で語り合えたということ。

  「一方的じゃない?」「聞く方はどうなるの?」と言われるかもしれない。でもあなたもきっと会話をしたはず、内なる声と。 「どうもあなたの歌は好きじゃあない」「何言っているのか分からない」 と思った・・・・。 私は今のところ歌で自己表現をしている幸福を得ているけれど、何か、何か、何かを皆様も表現してほしい。

  

 PS 作文の苦手な私が一息に書けたのは、NHKテレビの『輝けるメロディー』という番組で全盲の少年(11歳)木下航志君の歌声を聞いたからなんです。 なんと言う声! 魂を震わす声! まぎれもなく彼の心の叫びを聞いた。(お母さんに叱られた次の朝歌っていたのだけれど) 「ごめんなさいお母さん、有難う・・・」 という言葉のない声が聞こえてきた。アンコール、アンコールと私はテレビに向かって言っていた。

『佐野』      佐藤 風太 (ギターリスト)              るぽあんしゃんて通信 第2号 2000年冬発行より

 

  先日、富士市で人に道を尋ねた。『あの角を曲がって、東にちょっと・・・・』と教えてもらう。うーん、そうだったね。富士の感覚だ。東京ではこういう場合、東西南北は使わない。どっちが北やら南やら見当がつかないからだ。そう、富士市は北に富士山、南に駿河湾。どこにいても富士山は見える。そうだ、そうだった。その富士山からほぼ北西、富士山の麓の富士宮市。地元の人にとっては当たり前のことだが最近気がついたことがある。富士宮にはずいぶんと佐野さんが多い・・・・・。うん、気になりだすと次から次と目に入ってきた。「佐野酒造」「佐野製紙」「佐野産婦人科」「佐野パン屋」「佐野運送」ああ、きりがない。昔、私のまわりで「石を投げたらギター弾きに当たる」と言われたくらい一時ギターリストは多かった。富士宮でも石を投げて「イテッ」と云う声を出したらその人は佐野さんに違いない。富士宮の大通りで「オーイ。佐野さ~ん!」と大声を出したら何人振り向くだろうか。

  秋のどこまでも澄んだ空の遥かな上空で「佐野さ~ん!」という声がいつもこだまして聞こえてくるような気がする。

  ピアソもダリも、ミロもスペインはカタローニャの人。そこで生まれ育って花の都パリに出た。でも描くものはあのカタローニャの山並みに育まれたものだ。シャガールもロシアの田舎から出てパリに行ったが描くものは夢に出てくる生まれ育った田舎の風景。シャンソンの世界も同じく外国からパリニに来て、自国の唄をうたっている歌手が多いのだ。

  佐野加織がパリのオランピア劇場で唄ったとしても、日本の、富士宮の立派なシャンソンに違いない。ああ、そういう日が来ないだろうか。富士宮の大根とか筍とか夏みかんとかをお土産にしてパリのミュージシャン達にあげたら喜ぶぞー。

  フランスのシャンソンの中にも「ふじやまー」って唄っている曲もあるし、富士の大地で育ったシャンソンと言えばみんな興味を持つに違いありませんぜ。

  駿河の国の茶の香り~っ、てね、いえ、シャンソン歌手、佐野加織ですよ。 

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